暮らしの道具を作っています

Originalのはなし  

先日知人に、このブログを見るたびにいつも説教されているように感じると言われて、そんなつもりも無いのになるほどと納得してしまった。
たしかに書かなくてもいいような面倒なことも書いていると思う。余計なことを書かないで日々の出来事や商品の説明だけしていればいいとも思うが、性分で面倒なことを書かざるを得ないというか、自分の主観的な意見を書くことで、たまたまこのブログを見た誰かに何かを感じていただければと思う。つまりブログを通して客観的な意見を提議している。自分の主観が正しいことを主張している訳ではない。
なんか変なこと書いてるなとか、それはちょっと違うんじゃないかとか、批判的に思われても何も感じてもらえないよりかはいいと思うし、違うんであれば違うと思った人がこうだよと何処かで表現するか、コメントして頂ければ有り難い。
仕事関連のブログなので本当は多くの人が受け入れ易い事を書くのが望ましい事はわかるが、そういう性分ではないのでこのブログの方向性はこの先も変わらないだろうと思っている読む人にはめんどくさいブログである。


では本題。
作りたいと思う衝動に駆られて初めて作るものは、いままで作ったことがないので技術的には下手くそだが、下手くその中にも精神性があると思う。
その下手くそさが気になって改善しようと次に作るものは技術的には上手くなるが、少し精神性が薄れるように思う。
それは作者のなかでは最初のものがオリジナルであり、次のものはオリジナルの模倣になってしまうからであろうか。
そこに気付き、何度も反芻して練習を繰り返して消化する。そして技術、精神と共に洗練された答を見つけられたら結構良いものが作れるのではないかと思うのだがどうだろうか。

ものづくりに限った事ではなく、例えば祭りごととか、学校とか、恒例行事とか、多少なりとも世代を跨ぎ歴史を含んでいるものは、元々産まれるための理由があり、受け継いだ本人は肝心要であるそこに至るまでのプロセスをリアルに体験していないわけで、その反面形式にこだわる傾向が見られる。勿論伝統となると形式を受け継ぐ責務もあるし、伝統を応用して次のステップに移る意志があるなら受け継ぐことは近道を選択することでもあると思う。
形式に捕らわれ過ぎると本来の意味が薄まり、それを補うために形式的な精神を唱えるという形式の悪循環に陥る。それが積み重なるともはや想像性は失われ、ただの押し付けになることもありうる。科学や歴史はより良く変化するための学問だという思考さえも飲み込んでしまう。

人がつくるものは、その時々に考えていることが反映される。この文章もまた今の考えが反映されているわけで、全てが正しいとは全く思わないし、あくまで不完全な人間の個人的な見解。はじめから完璧な意見を求めたら、いつまでたっても何も産み出せない。
重要なのは客観的な意見であり、良い所のみを吸収して後世に生かすという循環だろうと思う。変化しないことが伝統ならば、いつか淘汰されることを自ら望んでいる。
空気の淀んでいる所からは良いものは産まれない。




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