暮らしの工芸

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今年もありがとうございました。  

今日で今年も終わり。年齢と共に時が過ぎるスピードは加速しているように感じる。
今年やりたかったことは結局半分くらいしか出来なかったけれど、予想外の方向にかなりの進展があったと思う。

一人で進める仕事のスピードを、のっている状態で保つのはなかなか難しく、すごく波がある。
いろいろと欲張って新しい仕事の話があると可能性を試してみるが、そのたびに作るものに対していい加減には向き合えないので、頭の中を切り替えて集中できるようになるまでに時間がかかる。全て同じ鉄という素材を基本に使っているのだが、料理に和食、洋食、中華などがあるように、同じ枠の中でも少しづつ違う。ここの切り替えをスムーズにするには経験を積んで行くしかないようだ。しんどいけど面白い。
そんなことを考えつつも、今年も多くの方にお世話になってまた新しい年を迎えることができそうだ。

応援して下さった方々、お買い上げ頂いた方々、有り難うございました。
また来年も宜しくお願いいたします。




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category: その他のこと

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包丁の多様性  

先日、当包丁のセールスポイントは何か?というお問い合わせを頂いて、ブログ等を通じてけっこう説明してきたと思っていたのだが、よくよく考えてみると、特にこれだっ!というセールスポイントがあるというわけでもなく、大して売り込みもしてなかったようだと気がついたので、そのことについてちょっと考えてみた。

私の作る包丁はほぼ手作業で一貫生産していて、燃料も作っている。鉄も作りたいのは山々だが、コストに見合わないので今のところ保留にしているが、そのうち密かにやってみたいと思っている。
現代では分業制が主のもの作りの中で、一貫して手作りというところがわりとセールスポイントなのかな?と今まで思っていたのだが、これはセールスポイントと言える様で必ずしもそうではないようだ。なぜなら作り手が包丁を作るプロセスで、使い手が料理をするわけではないから。
手作りで味わい深いとは思うが、他に良い包丁はこの世にいくらでもあるし、よく考えたらこれがセールスポイントですっ!なんて言える所はほとんど無いに等しい。しいて言えば現代ではちょっと変わってるのかな?ということくらいだが、セールスポイントではないか。
変わっているのは作っている人もだが、大量生産の時代に、わざわざ手間のかかる方法で作っているから変わって見えるというべきか。
アンチ大量生産というわけではなく「手仕事は絶滅危惧職か?」 でも書いたように、手の延長線上でのものづくりから外れなければ、むしろ可能な限り効率化していきたいと思っている。オートメーションは嫌なので、多少非効率であっても手の延長線上のものづくりを今後も続けていきたいと思っている。勿論こんな考え方は金儲けには縁の薄い話で、不器用だと思いつつも、根本的な考えを変えるつもりは今のところ無い。「手の延長線」という考え方は人それぞれで、何処までが手の延長なのか定義づけるのは難しいが、自分の中の基準で効率化は進めて行くつもりだ。
なぜオートメーションは嫌なのか?一番思うことは、最終的にはヒエラルキー型のものづくりになるし、個人的には今のところ、理想的なヒエラルキーの形をみたことがないので興味を持つことができない。現在は、みんなが価格競争をして、最終的には何処へたどり着こうとしているのだろうかと思う。
ある程度の上下関係は必然だが、同じつながりで仕事をするのであれば、個人が自立し、お互いに価値あるものに対してそれにふさわしい敬意を払う(respect)することができるような、縦だけではなく横にも伸びた関係や仕事がしたいと無茶な理想を抱いている。実際には他者のことなど表面的にしか理解できないのだから、結局そんな答えはもしかしたら無いのかもしれない。

手仕事という、未来の見えない分野に勘違いの希望を抱いているとはまったく思わないし、信じていることで、まだ可能性があると思うからこそ続けられる。老いて死ぬまで続けられたら、何らかの形になっているのだと信じたい。

むかし、小学生の時の社会化見学で、パンを作っている工場を見学した。広い工場の中をぐるぐる回りながら階段を登って行き、最後に少し高い場所からの俯瞰でガラス越しに、白衣を着てマスクをした人たちがベルトコンベアーの前で作業をしているところを見た。この光景を小学生に見せる意図とは何か?今思えば「なるほど!社会化見学ね」となるのだが、そのあとはただ香ばしい焼きたてのパンを貰って、焼きたてのパンは良い香りがするな~なんて思ったりした。まぁ当たり前だよな小学生だし。でも当たり前って年齢とか時代と共に当たり前ではなくなるんだよな。当たり前ってあたりまえではないのかもな。

伝統工芸はビジネスになりにくいと言われる現代だが、小規模で手の延長線上で最初から最後まで手作りできるということは、技術さえ習得すれば独立しやすいということでもある。自分の意思で駒を進めたいので、大規模なものづくりは向いていないし、家内制手工業は初期のリスクが少ないと思う。ただし、物が作れるのと売れるのはジャンルが違う。
自分の意思で考えて作って、ただの材料だったものが実際に製品として生まれ変わるのを経験することはすごく楽しい作業であるし、実際の作る現場で直接感じたことをすぐに製品へフィードバックできる。
なにより、これ本当に手で作ったの?どうやって作ったんだろう?と思えるものに出会うことはとても感動するし、そういうものを作っていきたいと思う。古いものをみると、まだそういうものが僅かに残っているが、消えるのは時間の問題なんだよな。

鍛冶屋で言うと少し前の、日本に限られたことではないとは思うが、量産品が世に溢れる前には「野鍛冶」という鍛冶が人の住んでいる場所なら何処にでもいた。野鍛冶は暮らしに使う道具を作るのだが、作る人もそれぞれに良いと思った方法で作るので、出来上がったものは良くも悪くもみんな個性があったと思う。

ものにはいろんな情報が詰まっている。作られたものからその生まれた土地の風土や作者の思想などを感じとることが楽しくもあり、食べ物だったら育てた風土が味にも影響を与えている。たまに何処かにふらっと行きたくなるのは、新しい体験をして感動したいわけで、なんの予備知識もなく何かにたまたま出会い、感動できたらその体験は何にも変えがたい。そんな期待に答えてくれるのは大体、個人のお店だったりする。なぜなら、それらは大々的にメディアなどで宣伝されているわけではないから急に目の前に現れるし他の何処にもないものだから新鮮な体験ができる。
人それぞれみんな違う個性で生まれてきて、違う環境で育つのだから、信念があるならそれを元に個人がそれぞれに思うままを表現してそれぞれに認め合うことができるのなら、奥行きのある社会になるのではなかろうかと思う。みんな唯一無二の存在で、どんな人からも何かを学べる。生物が進化するには多様性が必要であるという。

鍛冶屋は工業の原点という言葉をよく耳にするが、まだ工場なんかが無かった頃の野鍛冶という観点から想像すると、確かに工業の原点ではあるが、同時に農業や林業などの延長線上にあるというか、含まれているというか、仕切りや切り替えの無い連続したものであったと思う。炭を使って鉄を真っ赤に焼いているとそんなことを思ったりする。
道具が無ければその辺のもので代用するし、使っている道具がなんか使いにくくて仕事の能率悪いからちょっと改造してみようかなとか、器用な人だったら作ってしまうだろう。そんな人に誰かが、ちょっとこんなの作ってくんない?と仕事の依頼をして、気がついたら鍛冶屋になっていたとか。
今は農業とか工業とか、なんでもかんでもきっちりカテゴライズされているが、普段農業とはまったく関係ない仕事をしている人が休みの日に家庭菜園をしたりするわけで、どちらも生活の一部である。
思うに野鍛冶は以前、半農半工とか、半林半工(半分農業半分鍛冶、半農半Xって言われてますね。暖かい時期に農作業、寒い時期に鍛冶)とか自分で使う道具を自分で作る人たちがかなりいたと思うし、実際にいたようだ。
自分の使う道具を自分で研究するので使い勝手も良くなって行くし、農閑期の仕事にもなる。なんで研究するのか?勿論自分が不自由しているのだから自然発生的で、熱心になると思う。
私が野鍛冶に魅力を感じたのは、無機物を扱っているのになんかちょっと有機的な要素を含んでいるところがあるというか、遊び心があるというか。

仕事が生活の延長線上にある。

現代ではちょっと変わった良くも悪くも個性のある道具。なるべく自分の中にしかない経験や個性を、作るものにフィードバックさせていきたいと思う。そうでなければわざわざこんな手間のかかるもの作りなどやる意味もない。なので当包丁は錆びる鋼を使ってるし、合う人と合わない人とのギャップがけっこうあるのかもしれない。
ということで当包丁は「現代では変わっている」のだと思う。

とりあえず、人間食べることが大事。それがなければ何も始まらない。
家族の為に毎日、おいしいご飯を作れる人を心から尊敬している。



category: 当製品について

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