暮らしの道具を作っています

もう一度食べたい味  

たまにふと思い出す味。
会社勤めだった頃、だいぶ前のことなので場所を忘れてしまったが出張で兵庫か大阪に行ったとき、高速のI,Cの入り口付近で昼飯を食べに、何となくお店の佇まいが気になって入ったラーメン屋の味が忘れられない。

店に入ってカウンターに座り、多くの客が注文している一番人気のありそうな「チャンメン」だったと思うが注文した。カウンターからは厨房の中の様子がよく観察できた。
しばらくして、おそらく自分の「チャンメン」であろう仕事に取りかかる神経質そうな若い男が目に入った。
この男の仕事を見て何故かこの「チャンメン」は絶対に旨いと確信する。なぜならこの男、中華鍋で具を炒め、数種類の調味料で味付けをしたあと、匙で味見を一回、二回と。調味料を足してまた味見。味が決まったか?と見せかけ、ラードを足してまた味見。どうもこの男、毎回こんな感じで味見をしているようである。
味見をするためにちょっと多めにつくらなあかんやないの?なんて関西人でもないのにツッコミを入れたくなる。
多分彼の中にある味の基準に限りなく近付けるようどんぶり一杯ごとに彼なりのチャレンジをしているのであろう。納得するところまでやる、気に入らなければ捨ててしまいそうだが、それはさすがにやらないか。
そして、そのどんぶりが目の前に出された。
スープを啜る、ドンピシャだった。想像通りの味にもう無我夢中で食べ終えて幸せだった。
もうあの味の記憶が薄れてきている。今食べたら違う味に感じるのかな。

最近友人に連れられてわりと近所にある初めて入った定食屋の肉もやし炒めと、アジフライが旨くてビールが最高だったのだが、〆にみそラーメンをたのんだ。その時もカウンターに座っていたので厨房の中がよく見えた。
そこでもう3、40年は営業しているだろうか。
年季の入った親父さんがみそラーメンの味見をした。匙でぐぃと一杯、合格のしるしか流しで匙がかちんと鳴った。
あの「チャンメン」を作る男を思い出した。この親父さんも昔は何度も味見をしたのだろうか。チャンメンの彼があと2、30年たったらどうなのだろうか。
もう一度食べたい味。


スポンサーサイト

category: 気儘に

tb: 0   cm: 0

HANの市場  

山梨県の富士川町平林にある ギャラリーHAN さんが10周年企画の始まりとして HANの市場 を開催されます。
開催当日、当工房の包丁も並びますので是非この機会に手にとってご覧いただければと思います。

HANの市場
開催日 2012年9月9日
時間 AM11:00~PM5:00
場所 ギャラリーHAN
山梨県南巨摩郡富士川町平林2397
TEL 0556-22-5612
E-mail info@galleryhan.moo.jp

詳しくは→HANの市場



category: 展示

tb: 0   cm: 0

包丁をお買い上げ頂いた皆様へ  

この世に星の数ほどある包丁の中から当包丁をお選び頂きありがとうございます。
包丁は食事の支度をするために使う道具ですので、ほぼ毎日長い間暮らしのお供をさせていただくことになります。
常に使い勝手に気を配りながら製作していますが、万人が納得できる完全なものを産み出すことはなかなか難しく、このことはずっと続く課題だと思っています。
使いづらい道具は使うたびに気になります。もし何かお気付きの点が御座いましたら前向きに対応させて頂きますのでご一報頂ければ幸いです。
末長く使って頂けることを心より願っています。


category: 当製品について

tb: 0   cm: 0

Originalのはなし  

先日知人に、このブログを見るたびにいつも説教されているように感じると言われて、そんなつもりも無いのになるほどと納得してしまった。
たしかに書かなくてもいいような面倒なことも書いていると思う。余計なことを書かないで日々の出来事や商品の説明だけしていればいいとも思うが、性分で面倒なことを書かざるを得ないというか、自分の主観的な意見を書くことで、たまたまこのブログを見た誰かに何かを感じていただければと思う。つまりブログを通して客観的な意見を提議している。自分の主観が正しいことを主張している訳ではない。
なんか変なこと書いてるなとか、それはちょっと違うんじゃないかとか、批判的に思われても何も感じてもらえないよりかはいいと思うし、違うんであれば違うと思った人がこうだよと何処かで表現するか、コメントして頂ければ有り難い。
仕事関連のブログなので本当は多くの人が受け入れ易い事を書くのが望ましい事はわかるが、そういう性分ではないのでこのブログの方向性はこの先も変わらないだろうと思っている読む人にはめんどくさいブログである。


では本題。
作りたいと思う衝動に駆られて初めて作るものは、いままで作ったことがないので技術的には下手くそだが、下手くその中にも精神性があると思う。
その下手くそさが気になって改善しようと次に作るものは技術的には上手くなるが、少し精神性が薄れるように思う。
それは作者のなかでは最初のものがオリジナルであり、次のものはオリジナルの模倣になってしまうからであろうか。
そこに気付き、何度も反芻して練習を繰り返して消化する。そして技術、精神と共に洗練された答を見つけられたら結構良いものが作れるのではないかと思うのだがどうだろうか。

ものづくりに限った事ではなく、例えば祭りごととか、学校とか、恒例行事とか、多少なりとも世代を跨ぎ歴史を含んでいるものは、元々産まれるための理由があり、受け継いだ本人は肝心要であるそこに至るまでのプロセスをリアルに体験していないわけで、その反面形式にこだわる傾向が見られる。勿論伝統となると形式を受け継ぐ責務もあるし、伝統を応用して次のステップに移る意志があるなら受け継ぐことは近道を選択することでもあると思う。
形式に捕らわれ過ぎると本来の意味が薄まり、それを補うために形式的な精神を唱えるという形式の悪循環に陥る。それが積み重なるともはや想像性は失われ、ただの押し付けになることもありうる。科学や歴史はより良く変化するための学問だという思考さえも飲み込んでしまう。

人がつくるものは、その時々に考えていることが反映される。この文章もまた今の考えが反映されているわけで、全てが正しいとは全く思わないし、あくまで不完全な人間の個人的な見解。はじめから完璧な意見を求めたら、いつまでたっても何も産み出せない。
重要なのは客観的な意見であり、良い所のみを吸収して後世に生かすという循環だろうと思う。変化しないことが伝統ならば、いつか淘汰されることを自ら望んでいる。
空気の淀んでいる所からは良いものは産まれない。




category: 最近思うこと

tb: 0   cm: 0