暮らしの道具を作っています

個人がものをつくる  


自由製作をするにあたって

個人が思い立って何かを作ろうとする時、最初は自由製作から始まる。
ある程度いろんなものが作れるようになり少しづつ売れるようになって、なんとかそれを生業とした場合、生活があるので自由製作ではなく同じものを量産して対価を得ることに気をとられるし、実際のところ、そうせざるを得ない。
そうなると、個人がものを手作りする意味は少し薄れるように思えてくる。

同じ物を沢山作る事は、毎回違う物を作る事に比べて、想像しているよりも遥かに効率がいい。

量産することは機械の得意分野だから、高コストの人間が同じものを作る意味は何なのか?
その違いは作る本人にしかわからないようなことではあるが、作りたいものを作ることから始まっているのでジレンマが生じてくる。
作りたいと思った時に、作りたいものを、時間も予算も気にせずにやりたいが、そんなにうまく行くわけもないし、大体ほとんどの場合、そんなのは仕事として成立しない。

ただ、少し時間とお金に余裕がうまれたときには、新しいことを実験するチャンスがやってくる。
そうやって新しいものを作っていく。機能と見た目が良ければ、やがてラインナップに加わり、量産することになるので、また思考の堂々巡り。それは嫌なことではないが。

したがって、仕事として自由製作で、毎回違うものをバリバリと、売れるものを作れるようになるには、ある程度経験が必要で、端からみると楽しんでいるように見えるかもしれないが、いざやってみようとも出来そうで出来ないのが、個人の生業として、作りたいと思ったものを作ることであると思う。










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道具のかたち  

普段人とろくに会話もせず、作業場に引きこもっている人間が(殆ど廃人が)たまに機会があって人と話しをしていると、包丁の形について、普段考えもつかないようないろんな話を聞くことが出来る。

今使っている包丁についての意見。いつもそこに何かヒントが無いか聞き耳を立てる。

たとえば、切っ先の尖り具合とか、バランスとか、柄の太さ、重い、軽い、使いやすい、使いにくい、手の痛み、力加減、まな板の減り具合?錆びる錆びない、使わない、使える、めっちゃ切れる!、切れすぎて怪我をした、料理余りしない、料理大好き、一人暮らし、子供三人、家庭菜園、病気、オーガニック、調理方法、レトルトパック、仕事用、魚、肉、野菜、いのしし、鹿、熊、包丁より鋏、どうやって研ぐの?長年連れ沿った奥さんに、結婚記念日なので包丁を、などなど。

書き出すときりがないが、そんな多くの人が思う良し悪しを聞いているうちに、作る包丁の形は感覚による統計によって洗練されていく。(と思っているが、全然科学的ではない)
必要のない部分が淘汰されて行くというべきか。
その辺は、僕というフィルターを通してなので、万人に共通することだとは思いもしないが、そこの部分については常に意識を向けている必要があるというか、向けざるを得ないと言うべきだろうか。自然に向いてしまうというのは嘘ではない。

川底の石ころが、水の流れによって転がって、角が取れるように。
海岸の波打ち際で、割れた瓶のかけらが砂と波によって丸くなるように。
必要のない部分が丸く削られて、必要な部分で形が構成されてゆく。
ちょっと大げさな言い回しで気障で、実際にはそんな大層なものは作っていないと思うが、気持はそれに近いものを感じていると思う。

そんなものづくりが面白いと思った。というか、そうでなければいけないのかな?とも。
そんな貴重な話が聞ける機会をとても有難いと思う。
言葉で言うのは簡単だけど、実際に実践するのは難しい。
理想を実践できるようになれたらいいなと思う。

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失敗をすることの意味  

ものを作っていると、必ず失敗作が出来上がる。
以前は落ち込んで目の前が真っ白になったり、腹が立って物をぶん投げたりすることもあったが、最近は失敗するとチベットの砂曼荼羅の話しを思い出す。
色とりどりの砂を用いて時間をかけて綺麗な曼荼羅を描き、完成したら掃いて川へ流すことを目的とした修行。
それに重ね合わせて考えれば失敗にもまた意味があって、壊されないものができる可能性があるだけまだいいのかもしれない。
後退しているようで、すこしづつ前進しているのかな、なんて思うことができる。
材料とエネルギーと時間を無駄にしたことを反省しつつも、まだまだやれるぞと。
人は創造と破壊を繰り返し、日向ぼっこ中の猫から見たら何をしているのかさっぱり分からないが、心をもつ人である以上、何もしないでいるわけにもいかないから。
意味が無いと思えることにも意味を見い出すことで、無駄なことは無いって思うことができる。

あーあ、またやっちゃったな。
また最初から。でも今よりちょっと上の最初から。
その繰り返し、くりかえし。



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Originalのはなし  

先日知人に、このブログを見るたびにいつも説教されているように感じると言われて、そんなつもりも無いのになるほどと納得してしまった。
たしかに書かなくてもいいような面倒なことも書いていると思う。余計なことを書かないで日々の出来事や商品の説明だけしていればいいとも思うが、性分で面倒なことを書かざるを得ないというか、自分の主観的な意見を書くことで、たまたまこのブログを見た誰かに何かを感じていただければと思う。つまりブログを通して客観的な意見を提議している。自分の主観が正しいことを主張している訳ではない。
なんか変なこと書いてるなとか、それはちょっと違うんじゃないかとか、批判的に思われても何も感じてもらえないよりかはいいと思うし、違うんであれば違うと思った人がこうだよと何処かで表現するか、コメントして頂ければ有り難い。
仕事関連のブログなので本当は多くの人が受け入れ易い事を書くのが望ましい事はわかるが、そういう性分ではないのでこのブログの方向性はこの先も変わらないだろうと思っている読む人にはめんどくさいブログである。


では本題。
作りたいと思う衝動に駆られて初めて作るものは、いままで作ったことがないので技術的には下手くそだが、下手くその中にも精神性があると思う。
その下手くそさが気になって改善しようと次に作るものは技術的には上手くなるが、少し精神性が薄れるように思う。
それは作者のなかでは最初のものがオリジナルであり、次のものはオリジナルの模倣になってしまうからであろうか。
そこに気付き、何度も反芻して練習を繰り返して消化する。そして技術、精神と共に洗練された答を見つけられたら結構良いものが作れるのではないかと思うのだがどうだろうか。

ものづくりに限った事ではなく、例えば祭りごととか、学校とか、恒例行事とか、多少なりとも世代を跨ぎ歴史を含んでいるものは、元々産まれるための理由があり、受け継いだ本人は肝心要であるそこに至るまでのプロセスをリアルに体験していないわけで、その反面形式にこだわる傾向が見られる。勿論伝統となると形式を受け継ぐ責務もあるし、伝統を応用して次のステップに移る意志があるなら受け継ぐことは近道を選択することでもあると思う。
形式に捕らわれ過ぎると本来の意味が薄まり、それを補うために形式的な精神を唱えるという形式の悪循環に陥る。それが積み重なるともはや想像性は失われ、ただの押し付けになることもありうる。科学や歴史はより良く変化するための学問だという思考さえも飲み込んでしまう。

人がつくるものは、その時々に考えていることが反映される。この文章もまた今の考えが反映されているわけで、全てが正しいとは全く思わないし、あくまで不完全な人間の個人的な見解。はじめから完璧な意見を求めたら、いつまでたっても何も産み出せない。
重要なのは客観的な意見であり、良い所のみを吸収して後世に生かすという循環だろうと思う。変化しないことが伝統ならば、いつか淘汰されることを自ら望んでいる。
空気の淀んでいる所からは良いものは産まれない。




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補完しあうこと  

鍛冶とか手仕事とか、もの作りとはあまり関係ない話ですが、最近思うことを一言。

「補完」という言葉がありますが、現代においてはとても重要な意味を持つ言葉だと思います。

何故こんな考えに至ったかというと、職人と商人の関係から始まったのですが、視野を広げると人間同士の建設的な関わりは補完し合うということなのではと思ったからです。
まぁ、こう言葉で書いてしまえばそれは当たり前のことなのですが、経験してから始めてその言葉の本当の意味を知るということはよくあることです。それに当たり前のことって普段あまり考えないですよね、それは当たり前だから。
なぜ「補完」が重要なのかということですが、それは全ての人間の想像力には限界があるということです。
もし全ての人が様々な物事を多角的に捉えることが出来て、他人の気持ちをリアルに感じ取れたら争いの起こっている状況は想像しにくいでしょうね。完全無欠で何でもできる人間なんていないです。
全ての人の考え方が同じだったら争いは無いけど何のための人間だかわからないし、そんなの人間ではなく、ただひとつの集合体?個性が存在することには何らかの意味があると考えてもいいのではないかと思います。
一人だけの思考では文殊の知恵になり得ないことは明らかですよね。

そこで補完しあうということが重要だと思うのです。
もう他人の気持ちを理解しようとする自分の想像力には限界があることを認めてしまう。
そのことを常に忘れないように頭の中に置いておけば、各々の個性を尊重するようになり、自分には出来ない分野は人に任せて、自分が得意な分野を推し進めるという、良い循環になるのではないだろうか。
その結果の集合体が組織ですが、どうも権力を持つと人はそういう肝心、要である部分を忘れてしまうように思います。そして何事もそうですが、一番弱い部分から影響が出始めるが、弱い部分というのは意識が行き届かない部分だから弱いのであって、なかなか気づかない。
自分には出来ないことがあるという意識を常に持っていることが大切だと思います。それが補完しあうきっかけなのであって、全ての関わりの根本でもあると思います。

私は全ての人が同時に幸せな状況を見たことがないですし、それはあり得ない事だと思います。
ですから全てはバランスの上に成り立っているのであって、必然的に、人それぞれの運気というものが存在していると考えられます。
人の運気が良いときは、長所は長所であり、悪いときには、長所が短所になりうるということは、経験則から学べることです。良い時は誰でも良く見えるし、それが永遠に続く訳がありません。逆もまた然り。
陰と陽は表裏一体で、+と-の部分でお互いに補完し合っていることが大切なのだと思います。
仮に全ての事象がバランスの上で成立しているのなら、様々な事象は巡り廻って帰ってくる。良くも悪くも明日は我が身、自分が笑っている時に、泣いている人もいるという想像力が大事だと思います。しかし完璧な人間なんて存在しないですし、存在したらいつの日か神だと呼ばれる日が来るでしょう。
補完しあう、大事だとおもいます。

自戒の意味も込めて書いてみました。




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好きになること  

普段の生活に追われて、自分の心の中を冷静に見つめる機会を作るのってなかなか難しいと思いますが、自分を知ることはけっこう大事な事だと思います。
何が自分を動かす原動力となるのか、様々な意見があると思いますが、私は「好きになる」ということをまず挙げたいと思います。
「好きこそものの上手なれ」と言いますが、やはりどれだけ好きになるかということが、何かを推し進めるにあたってとても重要だと思います。
好きになると自然に仕組みを掘り下げたくなりますよね。好きな人がいたら、その人のことを考えずにはいられませんよね。ですから、とことん好きに、熱中できることを見つけ出せれば、何かを成し遂げることへの近道になるのではと思うのです。それが生産性のあることでしたら尚良しですね。
何でもいいと思います。まず、何かに興味を持つことから始まり、少しずつ好きになって行く。
少し好きになったら、もっと好きな部分を掘り下げていく。そうして気付くと今までとは違う世界に自分がいることに気づくかもしれません。
本当は自分に合っているんだけど接点が無く、今まで敬遠していたものが突然好きになることがあるかもしれない。ものの見方って一つでは無いですよね。
ものごとの捉え方って人それぞれで、他人の物の捉え方って凄く気になりますよね?
自分の考え方や捉え方に制限を設けず、多角的に物事を見ること、客観視することを実践するのはなかなか難しいですよね。普段いつも通りの生活では、考え方や行動がパターン化してくるので、なかなか意識を変えるのは難しく、パターンを変える何かのきっかけは、やはり大切にしたいですね。ちょっと勇気を出して一歩踏み出してみる。この一歩はやはり好きなことだったらわりと自然に踏み出せる一歩だと思います。
草木のようにしなやかな心でいられたらいいですね。






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ひとこと言わせて。  

刃物を作ろうと思ったのはとくに刃物が好きだったからではなく、
刃物を作る技術と道具と火に興味があったからで、
だから尖った刃先にゾクゾクするとかはないわけで、そこの所を誤解されてたら嫌だなと思う。

道具として必要な鋭さのものも作るが、ゾクゾク感を味わいたい訳ではない。

火を使い、ものが作りたかった訳で、うつわでもガラスでも惹かれるものがあるわけで、
でも自分のそれまでの経験と適応力を考えたら鉄だった。

なので、刃物をとてーも愛している方と話すと、たまに温度差を感じるときがある。


何かちょっと物足りないと思う生活の中で、少し手を伸ばせば届くもの。

暮らしが豊かになるもの。

目指すところは生活で、普通に使える工芸品。

そこを目指してるんです。




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手仕事は絶滅危惧職か?  

思ったことを気ままに書いてみる。

現代社会では昔からあった職業が淘汰されたり、表面上は似ているが中身はまるで変わってしまった職業が沢山ある。
特に物を作る分野では量産化が主流となり、手仕事は絶滅危惧職と言ってもいいだろう。
手仕事は人類が道具を持つようになってからつい最近まで当たり前に存在し、ここ数十年の間に淘汰されかけている。

手仕事が全く無くなるとどのような弊害が出るのか考えてみる。

たとえば、毎日食べている料理。これは複雑な形や種類の食材を切って組み合わせ、火加減、旨みの抽出、味付け、見た目、食べる人の体調に合わせるなど、かなり複雑かつ繊細な仕事で、しかも毎日味わうものなのでそう簡単には全て機械で作ることは難しいだろう。

もしも炊事ロボットが開発されたとする。レシピは自動的にダウンロードし、ロボットが勝手にやってくれれば人間は空いた時間に他のことができるようになってとても合理的だと思うだろう。
それは電子レンジや洗濯機が生まれた時のようにある意味ではとても便利で良いことかもしれないが、あまりに極端だと弊害が生じるだろう。
人間が料理の仕方を忘れてしまったり、家庭の味を知らない子供が育つなど、食べる人の感覚が正常ではなくなってしまったら人間こそがロボットみたいになって、食事はただの燃料補給でしかなくなってしまうかもしれない。(ちょっと考えにくいたとえですが、他に思い浮かばないので)
ただ腹が膨れればいいという考えで与え続けたらどうなるだろうか。人間は毎日の食事で構成されているので、相応の結果が出てくるだろう。

少し極端でわかりにくい比喩かも知れないが、道具に関しても似たようなことが言えないだろうか。使い手の感覚が麻痺してしまったら道具は凶器にもなりかねない。受け手側が麻痺しないように提供する側もある程度配慮する必要があるだろう。

物を作る職人について考えてみる。
仕事をするにあたって、人はそれぞれの性分があり、向いている職業と、向いていない職業がある。
現在、手仕事に向いている人には世知辛い世の中になっている。

物を作る仕事を希望する人で、現代のシステムに溶け込める素質と環境を持つ人はいいが、生まれ持った職人気質で世渡りが上手ではない人は活躍できる場が限られてしまっているのではなかろうか。
近頃はコミュニケーション能力が云々と言われているが、世渡りが得意であれば仕事場に篭もって物など作らず、出歩き、コミュニケーション能力を活かし効率の良い仕事をするだろう。
人類にずっと続いてきた手仕事に向いている人が突然いなくなるとは考えにくい。
職人に限ったことではないが、現代にある職業に溶け込むことが困難な性分の人は、現代の職業を見ても興味を持てないことが多く、それでも生きていかなければならないので回りに歩調を合わせようとするが、無理が生じる悪循環に陥ってしまう。それが溶け込めている人たちから見ると浮いた存在になってしまうし、自分に正直であればあるほどその傾向が強くなるが、何かのきっかけで世に認められると個性だと言われる変な世の中である。
それが社会なんだと言えばそれまでだが、それでもやはり考えいかなければならない。

現代のものづくりの現場では機械が主役で、人が機械を使いこなすのではなく、機械が出来ないことを穴埋めするために人が間に入って仕事をするシステムになってしまっていることが多いと思う。
利益を考えれば仕方がないといえばそれまでだが、そればかりを望んでいる人だけで社会は構成されていない。
勿論お金がなければ生きてはいけないが、各々の個性を活かして社会的な役割を果たしつつ、その対価としてお金を受け取り命を繋いでいくのが理想ではなかろうか。

工業と工芸の違いだが、工芸は機械を使うこともあるが、基本的には機械を用いても機械を手の延長線上にあると考える。(これはどなたかの著書に述べてあった言葉ですが探し出せませんでした。すみません使わせて頂きます)
工業は物が出来上がれば手段を問わず、オートメーションで作ることも歓迎される。上で述べた炊事ロボットと電子レンジのような関係だろうか。
言うまでもないことと思うが、オートメーションが良くないというわけではない。オートメーションによるものづくりがなければ現代社会は成り立たないほど進化しているし、全ての人が手作りの職人である必要もない。

手で物を作り対価を得るということは、現代社会ではかなりしんどいし希望する人が少ないのも納得できる。なぜなら大量生産品があふれ、それらは値段も買いやすく設定されているし、長い時間と労力をかけてデザインされているので良品も沢山ある。現代人はそれらに見慣れているので、まず値段で比較する。なので手作り品は手間がかかるがある程度値段の足並みをそろえて設定する結果、なかなかうだつが上がらない。また技術を習得するのにもかなりの時間を要する。まぁそのあたりで悩みつつやっていくのが現代の職人なのだろう。
それでも物を作っていくことでしか生きれない性分なのです。そういう不器用な人たちが消えないように持ちこたえ、その人たちにしか伝えられないものを世に発信していくべきだと思う。これは職人に限ったことではないが、それぞれの持ち味を活かし本質を究めていくことが大切だと思う。
手仕事の職人は、非効率な性分なりに良いものを作っていくことが出来れば、いずれ何処かにたどり着くだろう。

と願う。

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ものをつくる(その2)  

それでも諦めずにつくり続けていくと失敗は少なくなりますが、その失敗は何十年とやりつづけていればいつかは無くなるのではなく、何割りかは失敗するのだということを言われていました。要は歩留まりを上げていくのだと。

私も失敗の経験はそれなりにありましたのでその時は、わかりますといいましたが、経験が増えるにつれてその言葉の重さに気付かされました。

時間をかけて真剣に作ったものの何割りかは捨てることになるのかもしれないと。


わざわざ時間も材料も沢山使って、失敗したからまた作ればいいと、そんな気持ちではいけないですよね。だからなおさら神経を使うことになります。

これは鍛冶屋に限ってのことではないですが、よくよく考えてみれば当たり前のことなのでしょうね。

まだ私が扱うのは もの ですので、まだ失敗しても作り直すことができますし、少し落ち込んで損失で片付きますが。

本当の意味で失敗の出来ない職業の方は沢山います。
そのような方も含め、様々な人が使う暮らしの道具を作るのですから、出来る限り良いものを作って行きたいと思います。
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ものをつくる  

地球にある物質を少しの間お借りして、時間を形におきかえる。

できあがったものは、経年変化を経ながらしばらくの間、地球上に存在し、やがて元の姿にかえってゆく。

自分の作ったかたちが残るのだから、いつの日かそれに向き合った時に悔いの無いものを作っていきたい。


よく見ないと気付かない

何かを想起させる

かたちが言葉

形、色、模様、質感

その複雑に絡みあった信号が、読み取る側の心に作用する。

使うと仕事が楽しくなる道具。

そんなことを道具を通して伝えたい。

刃物を手作業でつくることは、ご存知の方も多いと思いますが、かなりの神経を使います。
刃の部分は一体なのでやり直しがきかないのです。
ちょっと失敗したからここを削ってくっつけてということが出来ない場合が多いです。
特に 鍛接 と、焼き入れ という工程が難しいです。

鍛接というのは地金(炭素量が少なく焼きを入れても硬くならない鉄)と、鋼(炭素量が多く焼きを入れると硬くなる鉄)を高温でたたいてくっつける作業。
焼き入れというのは、高温の状態から水、または油のなかに入れて鋼を硬くする作業。

鍛接温度が低いとちゃんとくっつかず、後々に地金と鋼が剥離してしまいます。
また温度が高すぎると鋼の組織が変わってしまい、使いものにならなくなってしまいます。
その失敗が鍛接直後にわかればいいのですが、最悪の場合工程の最後の方で気づく場合があり、そうなるともう捨てるしかありません。

焼き入れは工程の後半での作業ですが、焼き入れ温度が高いと鋼の組織が粗くなってポロポロと刃が欠けやすくなったり、直すことのできない歪みとなって現れます。
温度が低いと焼の入らない部分が出てやはり使い物にならなくなってしまいます。

このような失敗は熟練された方にも起こりうることでその失敗をどれだけ無くすことが出来るかというのが仕事として継続していく上で重要になってきます。

以前、とある交流会で40年の経験を持つ方と話していたとき、歩留まりの話しをされていました。
その話しの内容ですが、刃物を作り始めて最初は誰でも失敗します。
当たり前のことですが、しかし諦めずに作り続けているとそのうちにたまたま作れてしまう時がある。
それで作れるようになったと思いますが、そのあとまた失敗を繰り返します。

ものをつくる その2へ続く。

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鉄を、真っ赤に焼いて鍛えるためには、燃料が必要です。
燃料の種類は、ガス、電気、コークス、炭、等があります。
鍛冶に使うその燃料を、以前はコークスをメインに、最後の焼き入れは炭でと併用していましたが、最近は炭だけでなんとかまかなえるように自家製の炭を焼いて使用しています。
まぁ、自家製の炭と言っても、本職の炭焼き職人さんに見られたら、笑われてしまうようなものですが。 どんな炭かと言いますと、ただの消し炭です。消し炭は、木を燃やしておき火になったところで、空気を遮断して炭化させるという、誰にでも出来る簡単な作り方です。ただ木を燃やして消すだけ。
炭釜を使って炭焼き職人さんが作る本格的な炭と、消し炭のどの辺が違うのかと言いますと、私の経験論ですが、まず消し炭は焼きむらが出ます。
やはり燃えている、全体の表面に近い部分は熱が逃げやすいために炭化しずらくなります。
しかし表面上は、あまり火が回らないことを想定して一気に大量の木材を燃やすことで、消した後も余熱で火が回りそこそこの歩留まりで焼くことができ、硬さも出ます。
もう一つは、出来上がった炭の形が原形を留めずにバラバラになる部分が多いです。
これは、冷えるスピードが早いからなのだとおもいますが、バラバラになります。
炭を焼いて販売することが目的ではないので、鍛冶炭としてはかえって炭切りの手間が省けくらいの粒揃いな炭を焼くことができます。
それを目の粗い笊を使って使いやすい大きさの炭をふるいます。
消し炭の利点は、炭窯を作らなくていい。
前焚き(釜の暖気運転)をしなくていい。
火をつけて消すまでの時間が短い。
鍛冶炭だからできるアバウトさ。
鉄を鍛えることが目的ですから今のところはこのような方法で焼いてますが、少しずつ良い方向へ向けて整備して行きたいとおもいます。
炭の原木は、私の仕事を理解して下さる方々に頂いたり、木の伐採のお手伝いに行ったときに頂いたものを使用します。
炭は柔らかく、ふんわりと火が回り、焼きむらが出にくいです。
火の付きも良く、すぐに仕事が初められます。
もちろん、化石燃料でないことも、良いことです。

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道具  

道具を作るということは、とても難しい。

これは、よく考えさせられることだ。

人は道具を使うことで、新たなものを生み出し、目的にあった道具は、仕事の能率を上げることが出来る。

使いやすい道具の基準は、人それぞれで、やはり使い手が、一番そのことをよく知っている。

私も道具を使って、ものを作るし、自分の使う道具も可能なものは自分で作っている。

自分で作った道具は少しの間、使ってみないと本当のところはわからない。

形はそれらしいかたちをしていても、かっこばっかだな、と思うこともしばしばある。

自分以外の人が使う道具をつくる。

難しいことだなと、つくづく思う。

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受注生産  

注文を頂いて作る時は自然と、その人のことが頭に浮かびます。

そうすると、出来上がったものは何故か自然と、その人らしいものになるような気がします。

そんなの、あたりまえか。

受け取った側はそうは思ってないかもしれない。そう思ってるのは自分だけで、(いまいちだなと思われていたらすみません。遠慮なく言って下さい。)

その人の視点を少しお借りしてつくることが出来るので、すこし、その人の感覚が入ると思います。

私を通しての視点ということになりますが。

その時、自分だけでは考えつかないことを、ひらめくというか、考えつくことがよくあるように思います。

やはり、使い手があっての作り手なのだと思います。

有難いです。

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